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名句の源泉を訪ねて 

Fluctuat nec mergitur フルクトゥアト ネク メルギトゥル たゆたえども沈まず

沈まないパリ

 Fluctuat nec mergiturたゆたえども沈まず」は、現在のパリのモットーになっているラテン語です。1853年に正式にパリの標語として制定されました。その後はパリの紋章にもこの言葉が入っています。ちなみに、この標語に決めたのは、セーヌ県知事のオスマン男爵です。彼はパリ市の大改造で有名な人物です。この言葉は、1853年以前にもパリを表すフレーズの一つとして使われていました。1580年にはすでに、このフレーズがコインに刻まれていたようです。

パリ市の紋章
パリ市の紋章
Ⓒ Bluebear2, 2009
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Grandes_Armes_de_Paris.svg?uselang=ja

 まず、一つ一つの単語を見ていきましょう。

文中の単語 辞書の見出し語 品詞 見出し語の意味 性、曲用・活用
fluctuat fluctuo 動詞 波打つ、うねる 直説法能動態現在三人称単数
nec nec(neque ともいう) 接続詞 そして…でない  
mergitur mergo 動詞 沈める 直説法受動態現在三人称単数

fluctuo は英語 fluctuate 「変動する、上下する」の、mergo は submerge 「水に浸す」の後半部分の語源などになっています。mergo の派生語 emergo は「浮かび上がる、現れる」という意味で、英語 emergency の語源です。emergency は元々「浮かび上がること」という意味でしたが、そこから「発生する」という比喩的なイメージも生まれ、「緊急事態」を指すようにもなりました。そして nec(neque)ですが、ラテン語では「そして」と否定を1語で表す単語があるのです。例えば、Stetit impavidus neque loco cessit. であれば、「彼は恐れを知らずに立っており、降伏することはなかった」となります。

 このフレーズには主語がありませんが、パリ市の紋章には水面に浮かぶ大きな船が描かれているので、「波打つ」「沈まない」のいずれの主語も、船に例えられたパリ市だと推測できます。パリはたびたびセーヌ川の氾濫によって水没しましたが、決してパリが沈むことはありませんでした。このフレーズは比喩的にも解釈されており、2015年11月13日のテロ事件の際には、このモットーが頻繁に引用され、街角にも大きな文字で書かれ、テロリズムに対する抵抗の象徴となっています。

「たゆたえども沈まず」の標語
「たゆたえども沈まず」の標語
Ⓒ MAO, 2015
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:2015_-_Paris_-_Fluctuat_nec_mergitur_(23158335765).jpg

このフレーズの初出

 誰がはじめにこのラテン語を書いたのかは定かではありませんが、調べてみると、1585年に出版された戯曲 Lysocilogenes sive Mendicus Claudus Ambulans の4幕4場のコロスの台詞に instar Petri naviculae quae fluctuat nec mergitur 「たゆたえども沈まないペトロの船のような」というフレーズがありました。

 さらに、fluctuat nec mergitur ズバリではないのですが、以下のようなフレーズもあります。

Niteris incassum navem submergere Petri,
fluctuat, at numquam mergitur illa ratis.

あなたはペトロの船を沈めようと努力しているが、無駄である。
その船は揺れることはあれど、決して沈まない。

これはフリードリヒ3世がローマ教皇に宛てた書簡への、教皇からの返答を韻文にしたものです。実際にどのような文章を教皇が書いたかは分かっていません。フリードリヒ3世の書簡を韻文にしたものはこちらです。

Roma diu titubans longis erroribus aucta
corruet et mundi desinet esse caput.

ローマは、長期間足がふらつき、長き誤りに満ちており、
崩壊して世界の首都ではなくなるだろう。

どちらも、ディスティコンという詩になります。ディスティコンは1行目が長短短六歩格、2行目が長短短長短短長×2で書かれている2行詩を指します(場所によって、長短短は長長で書いても OK)。古代ローマの詩人の中では、プロペルティウスやオウィディウス(『変身物語』以外)が、この韻律で詩をよく書きました。

 また、教皇の返答の韻文は、以下のようにも伝えられています。

Niteris in vanum Petri subvolvere navem;
fluctuat haec, sed non desinet esse caput.

あなたはペトロの船を転がそうと努力しているが、無駄である。
その船は揺れることはあれど、ローマが世界の首都でなくなることはないであろう。

繰り返し登場する「ペトロの船」という言葉は、カトリック教会を指す比喩表現です。しかしながら、現在はパリの標語になっている単語が、ローマについて書かれた文にはじめて登場するというのが少し意外です。ペトロの船とローマが同様に語られている理由は、ローマに教会の総本山があるからです(現在はバチカン市国になっています)。

 この韻文については「中世に書かれた」と伝えられているものの、実際の原稿や写本などが見つかっているわけではありません。

 年代が判明している中で一番古いソースは、1567年に出版された Clavis Scripturae Sacrae です(Matthias Flacius 編)。ここに、Fluctuat, ast nunquam mergitur illa navis. 「その船は、波打つことはあれど決して沈まない」というフレーズが、「常に危機にさらされるが決して滅びない教会」を表す言葉として引用されています。年代が判明していないものとしては、15世紀の写本の断片に、教皇は Estuat et nunquam frangitur illa navis. 「その船は、揺れることはあれど決して壊れない」と返答したと書かれているものがあります。ここでは、書簡の相手(Roma diu titubans . . . と書いた人)は、フリードリヒ3世ではなくトルコ人です。

ラテン語の受動態

 最後に、ラテン語の文法について、触れておきましょう。パリの標語 Fluctuat nec mergitur. の mergitur の態は、表にある通り受動態です。ラテン語では、語の末尾で態を表します。英訳であれば、mergitur は is submerged などと、2語で訳されるものです。ただし、能動態の場合と違い、完了の受動は2語必要になります。その場合は完了受動分詞と esse の現在を使います。例えば「私たちは愛された」なら、Amati sumus. となります。現在、イタリア語、スペイン語、フランス語などのラテン語から生まれたいわゆるロマンス諸語の大部分では、受動態は be 動詞に相当するものと過去分詞で表されます。つまり、英語の受動表現と同様なのです。受動態の活用が使われなくなった理由として、一説には、語末の子音が発音されなくなったせいで能動態との区別がつかなくなったからだと考えられています(amor 「私は愛される」の r が取れれば、amo 「私は愛する」とほぼ区別がつかなくなる)。パリのモットーにある mergitur の -tur には、このような文法的背景があるのです。

 

〈参照文献〉

Flacius, Matthias. (1567). Clavis Scripturae Sacrae seu de Sermone Sacrarum literarum. Ioannes Oporinus & Eusebius Episcopius.
Springer, Carl P.E. (2025). The Latin Verse of Martin Luther: Texts, Translations and Commentary. Bloomsbury Academic.
 

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著者略歴

  1. ラテン語さん

    東京古典学舎研究員。高校2年生からラテン語の学習を始め、2016年から Twitter(現 X)でラテン語の魅力を日々発信している(アカウント名: @latina_sama)。企業等からのラテン語翻訳の依頼も多数。2022年にはアニメ『テルマエ・ロマエ ノヴァエ』とノートパソコン Chromebook のコラボ CM で使われるラテン語を監修した。著書に『世界はラテン語でできている』(SB クリエイティブ、2024年)、『座右のラテン語 人生に効く珠玉の名句65』(SB クリエイティブ、2025年)、『ラテン語でわかる英単語』(ジャパンタイムズ出版、2025年)などがある。

関連書籍

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