ルーン文字と日本:神代文字からポップカルチャーのアイコンへ
第14回(最終回) ルーン文字と日本:神代文字からポップカルチャーのアイコンへ
本連載「ルーン文字の遍歴」は、コロナ禍の2020年10月1日に第1回「ルーン文字とは何か」によって始まりました。筆者の遅筆のため半年に一度の掲載で、足掛け5年に渡りますが、今回の第14回をもって完結します。最後は、私たちの日本とルーン文字の関係を探ります。
さて、これまでの流れを復習しておきましょう。
2世紀頃にゲルマン人の文字として用いられるようになったルーン文字は、北欧人の間ではヴァイキング時代を経て中世末期に至るまで(一部では近代に至るまで)利用されました。16世紀以降は、「ゴート人の文字」として、北欧の過去とアイデンティティを理解するための鍵として、古物学者らの研究対象となりました。しかしそれと同時に、ルーン文字に対するオカルティックならびにエソテリックな解釈もまたなされるようになります。その最も顕著な事例は、スウェーデンの古物学者ヨハンネス・ブレウスです。彼は、スウェーデン王国中のルーン文字碑文を収集するとともに、ルーン文字に対するエソテリックな解釈も試みました。
19世紀にはアーリア人種に関する疑似学問であるアリオゾフィー(Ariosophie)が誕生しました。ここで言うアーリア人とは、北方ゲルマン人の祖として創造された疑似人種でした。アリオゾフィーは、その「アーリア人種」の至高性を証明するために、「アーリア人種」と措定される民族集団の生物学的特徴、その歴史、そこで生み出された文化などのさまざまな「証拠」を追求しました。この疑似学問の端緒となったのが、オーストリアのオカルティスト、グイド・リストによる『ルーンの秘密』(1905)でした。そこでリストは、『エッダ』に関する独自解釈に基づき、「アルマーネン・ルーン」という疑似文字体系を創作しました。アリオゾフィーはナチスの親衛隊長のハインリヒ・ヒムラーによる学術振興の中で力を持ちました。最高潮を迎えたのはナチズム期(1933-45)です。この時、「アルマーネン・ルーン」に対抗して独自の「ヴィリグート・ルーン」を生み出したカール・マリア・ヴィリグートのようなオカルティストが力を持つとともに、ドイツのヴォルフガング・クラウゼやヘルムート・アルンツらその後のルーン文字研究の礎を築く者もいました。
戦後もルーン文字は多様な遍歴を辿ります。各国でルーン文字研究が盛んになり、国際的な研究体制が築かれ、多くのデータはウェブでアクセス可能となりました。それは、特定の地域での利用に限定されていたルーン文字が世界中に広がってゆくことをも意味しました。ルーン文字のグローバリゼーションと言っても良いかもしれません。その最も顕著な例は、無線通信規格のブルートゥースのシンボルでしょう。デンマークを統一したハーラル青歯王(在位:958頃-985頃)にちなんだこの規格名のロゴは、ハーラルの H(ᚼ)とブロタン(青歯)の B(ᛒ)という二つのルーン文字を組み合わせて作られたものです。

図版1 ブルートゥースのロゴ
グローバル時代を象徴するこのロゴこそ世界で最も多くの人が目にするルーン文字ではないでしょうか。他方でローカル独自の文脈に従い、アメリカのようにフェイクが現実を動かすこともあれば(連載第13回)、ヨーロッパのように極右のシンボルになることもあります(連載第12回)。グローバルとローカルがせめぎ合う現在、私たちの日本では、ルーン文字はどのように機能しているのでしょうか。その歴史をひもといてみましょう。
日本で最も最初期にルーン文字を紹介したのは、1889年に文字としてまとめられた『須多因氏講義』です。これは、1887年に、ヨーロッパ遊学中の政治家の海江田信義(1832-1906)がウィーンに居を構えていた公法学者ローレンツ・フォン・スタイン(Lorenz von Stein, 1815-90)に日本の近代化において必要な知識を尋ねた時の口述筆記です。

図版2 『須多因氏講義』
(宮内庁、1889;https://dl.ndl.go.jp/pid/783250)
この口述の第10回「神字」では、日本の神代文字についての書である平田篤胤『神字日文伝』(1819)他を贈呈されたスタイン博士が、ルーン文字(テキスト中では「流泥」で「ルネ」と読ませている)について講義しています。ここでは、ルーン文字をギリシア・ローマ以前の文字であると理解し、その字形から、漢字の導入以前から存在した日本の神代文字と類似していると論じています。第11回で示したように、ヴィルヘルム・グリムが『ドイツのルーンについて』を刊行したのが1821年ですから、それ以降にドイツ語圏において蓄積されたルーン文字の知識に基づいてスタイン博士はコメントをしていた、と考えられます。
日本では江戸中期から幕末にあたる18世紀後半から19世紀半ばにかけてのイギリスでは、例えばウォルター・スコット『アイヴァンホー』(1820)のように、中世を肯定的に評価する中世主義(medievalism)と、例えばホレス・ウォルポール『オトラント城奇譚』(1764)のような中世の暗いイメージに価値を置くゴシックロマンスなどが人気を博していました。いずれにせよ、中世、とりわけ西洋中世とそこから引き出される価値観に注目する動きがイギリスから欧米諸国に広がり、中世を構成するさまざまな要素に注目が集まるようになります。なかでも19世紀後半のヴィクトリア朝においては、アイスランドに対する関心も高まり、その中世文献に対して熱い眼差しが注がれるようになりました。日本では、薗鑑訳『北欧鬼神誌』(1878)を嚆矢として北欧神話に関連する情報も導入され、オージン神を歴史を変革する英雄とみなすトマス・カーライル『英雄崇拝論』(丸善、1893)やギリシア・ローマ神話とともに北欧神話を紹介するトマス・ブルフィンチ『伝説の時代』(尚文堂、1913)なども人気を博しました。このような文脈の中でルーン文字は、アカデミアにおける文字研究、歴史研究、英語研究、百科事典などを通じて簡潔に紹介されました。

図版3 トマス・カーライル『英雄崇拝論』
(丸善、1893;https://dl.ndl.go.jp/pid/896689)
日本に本格的なルーン文字研究をもたらしたのは、ゲルマン学者の谷口幸男(1929-2021)です。谷口は、言語研究や文学研究を進めるとともに、1959年のミュンヘン大学への留学を機に、『エッダ』(新潮社、1973 / 完全版2026)、五大サガとヴォルスンガ・サガを収めた『アイスランド サガ』(新潮社、1979 / 新版2024)、オラウス・マグヌス『北方民族文化誌』(2巻、溪水社、1991-92)、サクソ・グラマティクス『デンマーク人の事績』(東海大学出版会、1993;全16書のうち神話部分の9書)、スノッリ・ストゥルルソン『ヘイムスクリングラ』(4巻、北欧文化通信社、2008-10)のように、北欧中世研究にとって基本書といえる文献を原典から訳しあげました。
谷口は1967年に、北ドイツのキール大学に留学した時、『エッダ詩』の校訂者で中世ノルド語研究の泰斗ハンス・クーン(Hans Kuhn, 1899-1988)の指導を受ける一方、現地の若手教員に示唆されてルーン文字への関心も高めました。谷口は、この2回目の留学中に、デンマークやスウェーデン各地へルーン碑文の調査に出かけています。そして谷口は帰国後、直ちに、「ルーネ文字研究序説」(1971)という大部の論考を書き上げました。勤務先の『広島大学文学部紀要』別冊の1号です。ひょっとすると、これは谷口のこの論文のために教授会で立ち上げられた別冊ですらあるかもしれません。
谷口の関心は、本論考執筆時点で、ゲルマン諸語そのものよりも、ゲルマン人の民俗と心性に移行していました。この論考を執筆する際に、谷口は、当時入手可能であった各国のルーン文字のハンドブックを参考にしていますが、その中でも最も中心に据えたのは、キール大学で勧められたヘルムート・アルンツの『ルーン学便覧』(Handbuch der Runenkunde, 1935; 2. Aufl. 1944)でした。連載第12回で記しましたが、ギーセン大学を拠点としたアルンツは、ナチズムの時代にドイツにおけるルーン学の基礎を打ち立てた立役者の一人です。アカデミアにせよ素人にせよ、ナチズムの時代にルーン文字に付託されたのはシンボルとしての文字でした。『ルーン学便覧』においてアルンツは、一旦「実用文字」としてのルーン文字の歴史を整理した上で、ルーン文字が文字として生成する以前からのゲルマン人のシンボル概念を再現し、そうしたシンボル体系の中で生まれたルーン文字を、「信仰文字」として理解するという独特の解釈を示しました。ややもすれば、エソテリックな理解に傾きかねないアルンツの解釈は、その後のルーン文字研究の中では後退しますが、谷口のルーン文字文化論においては伏流として残ります。
もちろん谷口は、戦後に教育を受けたゲルマニストとして、ナチズムに傾倒するはずもなく、ルーン文字がナチズムに利用されたことも認識していました。1981年に、当時ルーン学の中心的人物であったゲッティンゲン大学のクラウス・デューウェルの研究室に留学しますが、そこでは、『第三帝国のルーン学』(1984)を著した気鋭のウルリヒ・フンガーから強い影響を受けます。谷口は、従来の関心に従ってドイツ民俗学への沈潜はあるものの、その後のルーン文字に関する論考においては、「信仰文字」としてのルーン文字からは距離を取っているように見えます。
他方で、谷口以降、書くための「実用文字」としての側面を強く打ち出す北欧語圏と英語圏のルーン文字研究も日本に導入されました。早い段階でベルゲン木簡(連載第8回を参照)の中世ルーン文字を紹介した菅原邦城(1942-2019)は、イギリスのルーン文字研究を代表するレイ・ページ(Raymond Ian Page, 1924-2012)が執筆した小著『ルーン文字』(學藝書林、1996)を翻訳します。

図版4 レイ・ページ(菅原邦城訳)『ルーン文字』(學藝書林、1996)
さらに、英語学者の吉見昭德(1939- )は、英語圏で長く命脈を保っているラルフ・エリオット(Ralph Warren Victor Elliott, 1921-2012)のルーン文字概論の下訳を勤務先の紀要に連載し、のちに『ルーン文字の探究』(春風社、2009)として刊行しました。

図版5 ラルフ・エリオット(吉見昭德訳)『ルーン文字の探究』(春風社、2009)
それぞれに一長一短はありますが、以上の3点の論考が、日本語で入手可能なアカデミックな水準を保つルーン文字概論となります。
実は、日本にもルーン文字の書かれた石碑が、私の知る限り、二つあります。と言っても、1000年前のヴァイキングが実際に建てたものではありません。現在の北欧の匠が、ヴァイキング時代の石碑に模して造ったものです。
一つは、東京駅近くの千代田区日比谷公園に建っています。

図版6 日比谷公園の「古代スカンジナビア碑銘譚」(筆者撮影)
石碑の裏面に書かれていますが、この石碑は、1957年2月24日に、コペンハーゲンのカストロプ国際空港と羽田空港との北極周り航路が開通したことを記念して、その10周年である1967年に、スカンディナヴィア航空(SAS)が日比谷公園に寄贈したものです。石碑のデザインは、スウェーデンのウップランドではよく見る、石碑の形に合わせて体をうねらせるミドガルズ蛇(北欧神話に登場する巨大な蛇)の身体に文字を刻んだタイプです。碑文は、新フサルクや、点のついた中世ルーンが混在したルーン文字を用いてスウェーデン語で書かれており、以下のように訳すことができます。
Skandinaver opnade luftvagen melan Japan ok Europa over nordpolen den 24 februari 1957 ok reste denasten til hogkomst tio ar senare
スカンディナヴィア人は、1957年2月24日に、北極を通過する日本とヨーロッパの間の航路を開き、その10年後の記念のためにこの石は建つ。
もう一つは、現在、千葉県船橋市のふなばしアンデルセン公園に設置されている「ハーラルの石碑」です。

図版7a ふなばしアンデルセン公園の「ハーラルの石碑」のB面(左側)・C面(右側)(筆者撮影)

図版7b 「ハーラルの石碑」B面の下部(筆者撮影)

図版7c 「ハーラルの石碑」C面の下部(筆者撮影)
この石碑はもともと、渋谷区猿楽町にあるデンマーク大使館の玄関に設置されていました。いつからそこにあったのか定かではありませんが、私がコペンハーゲン大学に留学するためビザを申請に行った2001年には、確かにその敷地内にありました。そして何らかの機縁でふなばしアンデルセン公園に寄贈されたようです。この石碑は、連載第6回で詳述したイェリングにある、三角錐のハーラル青歯王の石碑を模したものですが、現物と全く同じ、というわけではありません。現物では一面に文字が書かれていたA面には何も刻まれておらず、イェリング獣とキリストの磔刑像が描かれているB面とC面の下方にのみ、ルーン文字が刻まれています。さて、この「ハーラルの石碑」のB面とC面にある碑文ですが、イェリングにあるオリジナル碑文のB面とC面のルーン文字列をなぞっているように思えます。ただし、ルーン文字の綴りに若干の混乱が見られることから、彫り手は、文字列の意味を解さないまま、記号か装飾としてこの文字列を刻んだ可能性もあります。
この二つの石碑が日比谷公園とデンマーク大使館に寄贈された経緯については、より詳細に調査する必要がありますが、スウェーデンとデンマークを代表するルーン石碑のレプリカを日本国内に設置したこと自体、大変興味深い文化現象であるように思います。というのも、現在の私たちはこれらがヴァイキングの遺産であることをよく知っていますが、「古代スカンジナビア碑銘譚」が寄贈された1967年当時は、多くの人にとってのヴァイキングは、角のついた兜を被った野蛮人、というイメージであったからです。
他方で、大学などとは別に、この間、北欧諸国との相互交流とその文化の普及をはかる、1949年に設立された北欧文化協会の活動と平行するかたちで北欧に関する知識を世間と共有しようという動きも見られました。3点挙げておきましょう。一つは、1968年に、中公新書から、荒正人『ヴァイキング――世界史を変えた海の戦士』が刊行されたことです。荒正人(1913-79)は『近代文学』同人として、日本の北欧研究の開拓者・山室静の盟友でもあった人物ですが、両名は、1961年に、ノーベル文学賞受賞者ハルドール・ラクスネスを訪ねてアイスランドにも足を踏み入れていました。そうして自分の足で歩いた経験を踏まえて、荒は、日本人による初めてのヴァイキング概論を執筆しました。

図版8 荒正人
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ara_Masahito.JPG)
二つ目は、1977年9月から78年3月の半年間、共同通信社主催「バイキング展 ロマンに生きた北海の勇者」が開催されたことです。コペンハーゲン国立博物館などから100点ほどの考古遺物を貸借して全国を巡回したこの展覧会は、なお簡単には海外に行くことができなかった多くの人にとって、ヴァイキングの実態を知るための絶好の機会を提供しました。三つ目は、1972年から78年にかけて、北欧文化通信社から、季刊『北欧』という雑誌が刊行されたことです。合計20冊刊行されたこの雑誌は、日本アイスランド学会やバルト=スカンディナヴィア研究会という学術団体の結成に先駆けて、全国の北欧関係者を一つの舞台にのせ、その知識を一般に還元する役割を果たしていました。
1970年代から80年代の日本は、一種のオカルトブームにありました。それを象徴するのが、1973年に発売されて大ブームを引き起こした五島勉『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)です。それだけでなく、超能力、UFO、怪異生物に関する雑誌やテレビの特集が人気を博した時代でもありました。私の幼少時代もここと重なっており、親に買ってもらう雑誌や本屋に並ぶポケット百科事典で、たびたび超自然的な現象や生物に思いを馳せていたものです。
この時期において、日本におけるルーン文字理解に影響を与える二つの記念碑的出版がなされました。一つは、J・R・R・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, 1892-1973)の『指輪物語』(1954-55)が、瀬田貞二(1916-79)によって完訳(評論社、1972-75)されたことです。オックスフォード大学でゲルマン語文献学を教授していたトールキンは、『ホビット』(1937)から『指輪物語』へと続く世界の中で、独自の言語・文字体系を創造しました。その一つが、石などに刻むためのキルスという、ルーン文字に相当する文字です。キルスにはいくつかの段階があり、改良されたものとしてアンゲルサスと呼ばれる文字体系があります。

図版9 アンゲルサス一覧(Hyde 1987)
もう一つは、谷口幸男により、北欧神話に関わる韻文ならびに散文の一部を収めた『エッダ 古代北欧歌謡集』(新潮社、1973)が原典から翻訳されたことです。『エッダ詩』に収められた「オージンの箴言」には、「ルーンの話」(139―146連)というルーン文字について書かれた箇所があり、ここで北欧神話の主神オージンが、世界樹であるユグドラシルの樹に逆さ吊りになっている時に、ルーン文字を読み取る描写があります。さらにその後に、18のルーン文字に対応する18の章句が続きます。これが曲者で、エッダ以降のルーン文字解釈、とりわけ占いを含むエソテリックな解釈に大きな影響を与えます。この二つの翻訳は、ルーン文字を「魔法の文字」として日本に定着させることに大きな役割を果たしました。
『指輪物語』は「中つ国」という類例なき世界を創造したハイファンタジー、他方でエッダは13世紀アイスランドでまとめられた北欧神話の源泉たる原典ですが、これらの翻訳を通じて、徐々にルーン文字という言葉が日本社会にも浸透します。その際、書記文字としてのみ受け取られたラテン・アルファベットやギリシア文字と異なり、ファンタジーとは切っても切れない「魔法の文字」として浸透した、と考えるのが適切でしょう。トールキンの影響を大きく受けたダンジョンズ&ドラゴンズのようなテーブルトーク RPG やファイティング・ファンタジーのようなゲームブックにおいても、世界観を支える文字としてルーン文字は用いられます。ここでは、受容者の数からしてさらに大きな影響を持ったと思われるファンタジー小説、ゲーム、占いの事例を確認しておきましょう。
1960年代半ば以降、『SF マガジン』ではイギリスの作家マイケル・ムアコック(Michael Moorcock, 1939- )の作品が次々に紹介されていました。その壮大な世界における物語の一つにエルリック・サーガがあり、その主人公であるメルニボネのエルリックの登場を描く『メルニボネの皇子』は1984年に翻訳されました。

図版10 マイケル・ムアコック(安田均訳)『エルリック・サーガ① メルニボネの皇子』(ハヤカワ文庫、早川書房、1984、イラスト:天野喜孝)
このエルリックが身に纏う魔剣ストームブリンガーの刀身には、ルーン文字が刻まれていました。現実の歴史においても刀身に文字が刻まれるのは古代以来珍しくありませんでしたが、フィクションにおいてその役割をルーン文字に担わせ後発の作品群に定着させたのは、『指輪物語』でした。1979年に第1巻『豹頭の仮面』が刊行された栗本薫(1953-2009)のヒロイックファンタジー『グイン・サーガ』でも魔術の道具としてルーン文字は用いられていますし、ライトノベルの祖とみなされ、北欧神話にインスパイアされた高千穂遙(1951- )の小説『美獣 神々の戦士』(2巻、集英社、1985)でも裏表紙のイラストにルーン文字が描出されています。
コンピュータゲームの中で、最もルーン文字と縁深いものの一つはウルティマ・シリーズでしょう。ウィザードリ・シリーズと並ぶコンピュータ RPG の祖とされる本作は、イギリス生まれのアメリカ人リチャード・ギャリオット(Richard Garriott, 1961- )によって1981年に Apple II 用に開発されリリースされました。その後シリーズ化される人気作品ですが、最初の作品から作中においてはルーン文字が用いられていました。日本語版が初めてリリースされたのは1980年代半ばとされていますが、マニアたちは Apple II を直接アメリカから輸入して遊んでいた、と思われます。『ウルティマV』(1988)に付属するマニュアル『Book of Lore』では、架空世界ブリタニアの言語の説明がなされ、そこで用いられるルーン文字が掲載されています。

図版11 ウルティマ世界ブリタニアのルーン文字体系
1990年前後頃から、占いの世界にもルーン文字が進出しました(ひょっとするともっと昔から街角や雑誌などでは見られたかもしれませんが、調査できていません)。多くの書店で人目を引いたのは、欧米でもベストセラーとなったラルフ・ブラム(Ralph Blum, 1932-2016)による『ルーンの書』(関野直行訳、ヴォイス、1991;原著 The Book of Runes, 1982)です。弁護士と女優の子として生をうけたブラムは、ハーバード大学で人類学を学び、その後冷戦下のソ連で映画の研究をしていました。1972年にはサイエンスフィクションの『人間改造プロジェクトβ』(矢野徹訳、早川書房;原著 The Simultaneous Man, 1970)を刊行しました。その後ブラムは精神世界への傾斜を深め、1982年にその成果である『ルーンの書』を刊行しました。

図版12 ラルフ・ブラム(関野直行訳)『ルーンの書』(ヴォイス、1991)
本書は各国語に翻訳されて大ベストセラーとなり、91年に、布袋に収めたルーン石と共に日本語訳も刊行されることになります。その後引き続き、『ヒーリング・ルーン』(スーザン・ローガンと共著、小林加奈子訳、ヴォイス、2000;原著 The Healing Runes, 1995)と『神託的生活366』(高橋裕子訳、ヴォイス、2002;原著 Little Book of Runic Wisdom, 2001)も刊行されました。このブラムのルーン関連書は、日本におけるルーン占いの一つのモデルになりました。著名な占星術研究家である鏡リュウジによる『神聖ルーン・タロット占術』(学習研究社、1993)などは、早い事例の一つでしょう。
こうした流れの中で、アカデミアとエソテリシズムの中間にある本も紹介されるようになりました。ラーシュ・マーグナル・エーノクセン(Lars Magnar Enoksen, 1960- )による『ルーンの教科書』(荒川明久訳、アルマット、2007[書名は『ルーン文字の世界』]/2012;原著 Runor, 1998)やエドレッド・トーソン(Edred Thorsson / Stephen E. Flowers, 1953- )による『ルーンの教え』(吉田深保子訳、フォーテュナ、2021;原著 Runelore, 1987)です。

図版13 ラーシュ・マーグナル・エーノクセン(荒川明久訳)『ルーンの教科書――ルーン文字の世界 歴史・意味・解釈』(アルマット、2012)

図版14 エドレッド・トーソン(吉田深保子訳)『ルーンの教え――ルーンの魔法、歴史、そして隠されたコード』(フォーテュナ、2021)
エーノクセンもトーソンも多くの本の著述家であり、トーソンに至ってはテキサス大学オースティン校での博士号取得者ですらありますが、それぞれヴァイキング時代の体術やルーン魔術の実践者でもあります。いずれも研究書を含む調査に基づく貴重な情報を伴う本ですが、エッダ以来の神話的言説とルーン文字を結びつける理解の影響を大きく受けている記述もあり、ルーン文字を書記文字とするアカデミア一般の理解とは必ずしも合致しないことは念頭に置いておく必要があります。しかしそれは他方で、戦後世界におけるルーン文字に対する社会一般の認知を表象してもいます。
アカデミア、ファンタジー、エソテリシズムを通じて日本に導入されたルーン文字は、20世紀はどちらかといえばマニアの間に止まっていましたが、21世紀に入ると、より多くの人がアクセス可能なメディアで用いられるようになります。近年の事例として、荒川弘原作・會川昇脚本・水島精二監督のアニメ映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』(2005)、日本の国民的ゲームとすらなったドラゴンクエスト・シリーズ(1986- )、日本ファルコムのアクション RPG『イース X Nordics』(2023)などを上げることができます。ここでは、ドラゴンクエスト・シリーズをより掘り下げて、考えてみたいと思います。
ドラゴンクエスト・シリーズの第1作『ドラゴンクエスト』は、シナリオを堀井雄二、キャラクターデザインを鳥山明、音楽をすぎやまこういち、プログラムをチュンソフトの中村光一という当時における黄金メンバーが担当し、1986年5月27日に家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータのソフトとしてエニックス(現スクウェア・エニックス)から発売された、コマンド型 RPG です。
上述したように、RPG 自体はテーブルトークやパソコンゲームを通じて日本にも紹介されていましたが、一般に広く普及していた、とは言い難い状況でした。堀井が、アメリカの『ウィザードリ』(1981)と『ウルティマ』(1981)というパソコン向け RPG にシステムと世界観のヒントを得てデザインしたドラゴンクエスト(以下 DQ)は、それらとは一線を画し、単純なコマンド、親しみやすいビジュアルと BGM、そして小学生でもクリアが可能な難易度設定により、日本に RPG というゲーム概念を広く共有させるに至りました。その後発売され、3人のパーティプレイが可能となった『DQII』(1987)、4人のパーティプレイと前作を踏まえた重厚な物語を提供し、購入に長蛇の列ができる社会現象を巻き起こした『DQIII』(1988)とシリーズを重ねるごとに、莫大な数の新規プレイヤーを取り込み、本家欧米のゲームとは別の進化を遂げる JRPG の祖型となりました。副産物としてこの DQ は、子供から大人まで幅広い世代が遊ぶことのできるファミコンという媒体で発売されたため、『指輪物語』に代表される剣と魔法が機能する疑似中世世界(「ナーロッパ」:なろう系小説[web 小説投稿サイト『小説家になろう』に投稿され、作品化された、特に「異世界」もの]で採用される世界観)で展開される物語を、活字を読まない層に至るまで広く共有させることを可能にしました。
実のところ、ファミコン時代の DQ にルーン文字は登場しませんでした。しかし状況は21世紀になって急展開します。このDQ 発売30周年を記念して、2017年に、堀井雄二の故郷である淡路島の洲本市市民広場にドラゴンクエスト誕生30周年記念碑が建立されました。世界を救った伝説の英雄ロトが用いていた剣と盾のほかスライムを模ったブロンズ像です。ここで私たちが注目するのはこのロトの剣の刀身です。そこにはルーン文字が刻まれており、ローマ字に転写すると「DRAGON QUEST」と読むことができます。

図版15 洲本市市民広場のドラゴンクエスト誕生30周年記念碑(筆者撮影)

図版16 ロトの剣の刀身部の拡大写真(筆者撮影)
ロト三部作と総称されるファミコン時代の DQI、II、III のパッケージなどを確認する限り刀身にルーン文字は認められません。つまりこの洲本市市民広場にあるロトの剣は、DQ ヒストリーにおける「伝統の創造」です。この「創造」がスクウェア・エニックス社内でどのようなプロセスを経て決定されたのかは気になるところです。疑似中世世界におけるルーン文字の銘文のある剣は、歴史的現実の中世に起源を持ち、トールキンが想像した世界で中世風ファンタジーの定式とされ、70年代以降の翻訳や日本オリジナルの作品を通じて本邦でも当然のものとされた魔剣の系譜にあることを証明しています。
今や、この日本においてもルーン文字を目にすることは、そう珍しいことではありません。日本でも大人気を博した小説ハリー・ポッター・シリーズ(1997-2007)にも出てきますし、スウェーデンを舞台にしたアリ・アスター監督のフォークホラー映画『ミッドサマー』(2019)でも重要な役割を果たします。幸村誠の漫画『ヴィンランド・サガ』(全29巻、講談社、2005-25)でもルーン文字の刻まれた剣や石碑が描かれますし、梅村真也原作・フクイタクミ構成・アジチカ作画『終末のワルキューレ』(既刊27巻、コアミックス、2017- )の最新刊でもルーン文字は大々的に描写されています。検索エンジンや SNS で「ルーン」と検索ワードを入れれば、数え切れないほどのルーン文字愛好者らの発言を目にすることができるでしょう。1970年代には一部アカデミアとマニアの間で共有されていた「魔法の言葉」たるルーン文字は、21世紀現在、ここまで一般の世界に受け入れられたのです。
明治初期の近代化とグローバル化の最中で日本が出会ったルーン文字は、戦後、ローカライズされることで、北欧神話や疑似中世世界を表象するポップアイコンであるとともに、人々の心に「異教」や「中世」を呼び覚ますマジックワードの一つとしても機能している、と言って良いかもしれません。
さて、2000年にわたるルーン文字の遍歴を私たちは辿ってきました。おそらく当初はローマ帝国からさほど離れていない北欧の南部で産声を上げた24のルーン文字は、この連載で見てきたように、文字の形が変わったり数も少なくなったり多くなったり、利用される範囲も狭くなったり広くなったりと、文字体系の生命としては一進一退を繰り返し、果ては「魔法の文字」として極東の日本にまで到達し、今に至ります。最後に、この遍路を振り返って、考えたことを述べておきましょう。
一つ目は、マイナー文字だからこその生命力の勁さです。2世紀に誕生したルーン文字は、一旦はゲルマン世界に広がったものの、西欧ではキリスト教文字であるラテン・アルファベットに押され、8世紀以降はほとんど北欧の中でのみの利用となりました。その北欧がキリスト教を受容した後では、一部では用いられていたものの、次第に忘却されることになった文字です。ゴート文字や西夏文字などがそうであったように、ルーン文字もまた、「社会の有用性」の圧力には逆らえず、中世とともに消え去る文字であったのかもしれません。しかし、近世に入り、古典古代との接続を誇るヨーロッパ諸国へ対抗しようとの愛国精神が、ルーン文字に再び生きる価値を与えました。ただ、死んだ文字に対するアカデミックな関心だけではなく、言ってみれば、北欧人の歴史と精神と一体化した文字として、息を吹き返した、といえます。ヨーロッパを科学精神や啓蒙精神が覆うなか、オカルティズムとも結びつきながら、じわじわと、ヘルメス主義やカバラもそうであったように、人々の精神の底流にその位置を占めるようになります。近代におけるルーン文字は、中世学やゲルマン学の中心的課題の一つとしてのみならず、ウィーン世紀末からナチズムを経て「魔法の文字」として、今や、文学作品にもポップカルチャーにも不可欠の生命を得ました。その鼓動は、時として弱くなることはあっても止まることはなく、きっかけを得ては再び勁く脈打つことを2000年間繰り返してきた稀有な文字でもあるのです。
二つ目は、記憶媒体としての有用性です。生成AI全盛の今、地球上のあらゆる情報が、0と1の電子情報に解体され、記憶媒体に書き込まれ、インターネットで繋がれる電子の海を凄まじいスピードで行き交っています。500年以上続いた紙の本の売れ行きは大きく減退し、どんな小さな町にあった書店も、今や撤退モードに入っています。高等教育やアカデミアで参考文献を準備せよ、と言っても、ほとんどの場合は、インターネットで入手できる情報にばかり集中するのが現状でありましょう。それはそれで、新しい世界の到来といえます。もちろん私もその中にあります。しかし、加速的に知識が集積され統合されプロンプトに従って出力そして利用される現状にあって、多くの人は、また、不安も抱えています。このような電子情報を支えているシステムを動かすエネルギーの供給が止まってしまったらどうなるのだろうか、と。仮に電子情報が失われてしまった場合、1000年後の歴史家は、西暦2026年現在の私たちについて、何も書くことができなくなっているかもしれません。他方で、2000年前のゲルマン人や1000年前のヴァイキングについて私たちが何がしかを知ることができるのは、石や金属に刻み込まれたルーン文字が当時の姿をそのまま伝えているからです。もちろん、その情報量は多くはありませんが、それでも、確実な痕跡が、今、ここにあります。そのような支持媒体に刻むことを目的として考案されたルーン文字は、生成AI全盛の今だからこそ、記録と記憶のあり方について、私たちに考えるヒントを与えてくれる文字でもあります。
三つ目は、次から次へと押し寄せる未知の部分の広がりです。この連載で光を当てたルーン文字の諸側面は、2000年にわたるルーン文字の歴史のなかの、ごくごく一部でしかありません。古代から中世にかけてのルーン文字のほとんどは、確かに博物館などに収集され刊本にまとめられたかもしれませんが、その謎を解明しようとする研究者は、世界で多く見積もっても100人もいません。そしてルーン文字は、近世以降にもあちこちでその顔を覗かせるわけですが、それについて触れられた手稿本や刊本がどれくらいあるのかを把握している者もいませんし、現在に至っては、世界の一体どの場でルーン文字が用いられているのか、全く把握はできていませんし、不可能なことでもありましょう。私の家の近所でも、表札をルーン文字で書かれている家などがありましたが、いったいどのような背景のある人がどういうつもりで書いたのでしょうか。謎は深まるばかりですが、誰がそれを研究するというのでしょうか。ルーン文字に関する未知の部分は、今なお、増える一方です。
今後も、古代や中世のルーン碑文は毎年発見されるでしょうし、電子カタログ化される情報は徐々に増えてゆくでしょうし、専門家による研究集会も毎年のように開催されるでしょうが、それとともに、ルーン文字に興味を持った人やルーン文字を何らかの形で使いたい人らが、新しいルーン文字の利用例を世界のあちこちに生み出してゆくでしょう。一旦は死滅しようとしたのに息を吹き返し、そして世界各地に増殖する文字というのが、ルーン文字以外に存在するのでしょうか。本連載のプロローグは「ルーン文字とは何か」というタイトルでした。そこでは確かに、ルーン文字の形態や歴史を定義づけはしています。しかし2000年を振り返って、今後予想もつかない場で機能するかもしれないルーン文字のあり方を踏まえた場合、ルーン文字とは何か、という問いに答えることは、なかなか難しいようにも思えます。しかしそれは、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、とでもいうように現在進行形で進化を続けるルーン文字の生命力と可能性を探求する楽しみを、私たちに期待させてくれることをも意味します。
皆さんも本連載を入り口として、ルーン文字の銀河系に足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。
〈参照文献〉
