多様化するルーン文字: 民族移動期からヴァイキング登場前夜
第3回 多様化するルーン文字: 民族移動期からヴァイキング登場前夜
2世紀頃にゲルマニア北部(現在のライン川の東・ドナウ川の北あたり)で誕生したルーン文字は、初期中世を通じて北ヨーロッパ世界に拡大しました。しかしキリスト教の拡大とともにルーン文字からラテン文字に取って代わられる領域が次第に広がり、最終的にはスカンディナヴィアに特有の文字となりました。今回は、ヴァイキングが登場し新フサルクが誕生する8世紀までに、ルーン文字がどのような展開を遂げたのかを確認します。
考古学で確認されるゲルマン人の故郷は、スカンディナヴィア南部からゲルマニア北部、つまり前回確認したルーン文字の誕生地とほぼ一致しています。その後、ルーン文字の使用はゲルマニア全域に拡大しました。そして4世紀以降、遊牧民族のフン人の侵入によって押し出されるかたちで、ゲルマン人のヨーロッパ半島各地への拡大が始まりました。いわゆる「ゲルマン人の大移動」(Völkerwanderung)の時代を迎えます。
図版1 「ゲルマン人の大移動」を示す地図
地図右上の四角い枠内のそれぞれの色は以下の領土や民族を示す。
|
西ローマ帝国
東ローマ帝国 ヴァンダル人 フン人 西ゴート人 |
東ゴート人
フランク人 アングロサクソン人 ブルグント人 ランゴバルド人 |
古ゲルマン語でコミュニケーションを行うゲルマン人は、ルーン文字を共有していました。ライン川とドナウ川を超えてローマ帝国内に侵入した彼らは、移動する先々の小集団を糾合しながら各地に定住しました。最終的に、ブリテン島にはアングル人とサクソン人、イベリア半島には西ゴート人、アフリカ北部にはヴァンダル人、イタリア半島には東ゴート人、ガリアにはフランク人らが定住しました。彼らは、戦士集団としてゲルマン人の特徴を残しながらも、部族に特有の歴史や儀礼を共有し、ローマ文明の遺産を受け継ぎ、定住地にゲルマン人国家を樹立しました。このように次々にゲルマン人が地中海・ヨーロッパ世界を席巻する中、476年に西ローマ帝国最後の皇帝であったロムルス・アウグストゥルスは退位を余儀なくされます。しかしローマ帝国の威光はなお減じることなく、コンスタンティノープルの東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)が保持し続けていました。そしてゲルマン人らも皇帝の権威は認めていました。
「ゲルマン人の大移動」は、西ローマ帝国崩壊の原因の一つともなるため、長年にわたってヨーロッパ人にとっては歴史上の大問題でした。しかし近年の研究では、より大きなコンテクストで語られるようになっています。すなわち、ミーシャ・マイアーやヴァルター・ポールら歴史学者が強く主張するように、「ゲルマン人の大移動」は、ただゲルマン人とローマ人のみの問題ではなく、中央アジアやユーラシア全体における民族集団の対立、移動、エスニシティ生成の中で考えてゆかねばならない事件である、との見方です。そもそもゲルマン人の民族移動は、中央アジアからユーラシアの西端に拡大したフン人との接触により起こった出来事でした。その後もヨーロッパ半島は、アヴァール人、アラブ人、マジャル人、クマン人、モンゴル人、トルコ人のような中央アジアや近東に起源を持つ集団が流入し、すでにいた集団と絶え間なく接触し対峙しました。新しい民族集団や国家は、こうした状況の中で生まれました。中世という時代は、グローバルヒストリーという国や民族集団といった単位を超えた大きな世界を描き出そうとする近年の歴史学とも、実は親和的な時代であったとも言えます。
このような新しい見方を踏まえるならば、ローマ人との接触の中で生まれたルーン文字の歴史も、新しい研究状況の中に位置付けてゆかねばならない時代に来ているのです。
民族移動期にヨーロッパ半島全体に拡大したゲルマン人は、彼らの居住領域のみならず、(旧)ローマ帝国領内に、ゲルマン人の文字であるルーン文字をもたらしました。24文字からなる古フサルクです。地域により若干の偏差は認められますが、古フサルクは、おおよそどの地域でも共通した音価と形態を保持していたと推測されます。
前回も申しましたように、ルーン文字が魔法の文字であるとか呪術的な目的に特化していたというような想像は現在の学問成果とは相反する議論です。しかしこの段階では社会のごく一部のみしか文字を扱いえなかったゲルマン人が、ルーン文字に対して、ギリシア人やローマ人が文字に対して持っていたのとは異なる感情を抱いていたこともまた事実です。後世の資料からの推論となりますが、ゲルマン人は、表音文字である24文字の古フサルクそれぞれが彼らの日常や信仰生活と関わる意味を持ち得ているとも考えました。つまり、フサルクの最初の文字である「f」は古ゲルマン語の fehu、つまり「金銭、家畜、富」を表すこともあるといったような理解です。想像力を逞しくするならば、ここからさまざまな推論もできますが、本稿ではこれ以上は踏み込みません。以下では、ゲルマン人による古フサルク利用の事例を確認しておきましょう(とりわけ古フサルクの転写や解釈は困難な事例が多く、研究者の間でも一致してないものがままあります。ここでの解釈は一例に過ぎません)。
民族移動期を特徴づける遺物として特筆すべきは、4世紀から6世紀の民族移動期のゲルマン人に特有の装飾品であるブラクテアットです。歴史学者のカール・ハウクや考古学者のモーテン・アクスボーらによるカタログによれば、現在、500点以上が発見されています。それは、後期ローマ帝国のメダルをモデルに作成された、直径20センチメートルほどの黄金製の円形装飾品であり、抽象化された人物像やウマのような動物と人体が融合した図像がしばしば描かれています。ローマというよりはむしろ、スキタイのような遊牧騎馬民族らによる抽象動物文様などとの関連が想起されるかもしれません。このブラクテアットでは時としてルーン文字が刻まれています。ここではデンマークのフュン島で発見されたものを取り上げましょう(DR BR42)。画像の下に、刻まれた文字と、その訳を示します(図3b、図4、図6、図7b も同様)。

図版2 4-6世紀に作成された、ルーン文字が刻まれたブラクテアット(薄い黄金製のメダル)
(デンマーク国立博物館に展示)
(訳:H?raz[「至高なるもの」と解釈した場合、ゲルマン神話におけるオージン神を意味する可能性もある]が・・・)
次に、ガレフスの黄金角を取り上げましょう。ユトランド半島南部のメーゲルトナー近郊のガレフスにおいて、1639年と1734年に2つの金メッキを施された角が発見されました。5世紀頃のものと推定されています。正確な用途はわかりませんが、黄金製でありなおかつ複雑な図像も描かれている手の込んだ物品であることから、高位の人物がなんらかの儀礼的用途で利用していたのかもしれません。残念ながら2つとも、19世紀に盗難に遭い溶かされてしまったために、現物は残っていません。現在、コペンハーゲンの国立博物館に展示されているレプリカは、盗難以前の記録に基づいています。当時の精神世界を知るために大変興味深い図像が彫り込まれていますが、17世紀に発見された長い方の角には、短いルーン文字列も刻まれています。

図版3a ガレフスの黄金角のレプリカ

図版3b ガレフスの黄金角のルーン文字銘文
(訳:私、Hlewagastiz Holtijaz がこの角を製作した)
先日、インターネット上で、チェコとドイツの研究者らが発表したルーン文字に関する情報が注目を集め(https://doi.org/10.1016/j.jas.2021.105333)、日本の「時事ドットコムニュース」でも取り上げられました(https://www.jiji.com/jc/article?k=20210216041175a&g=afp)。スラブ人が定住していたと考えられるプラハ近郊で、7世紀の、つまり宣教師が伝えたとされるグラゴル文字やキリル文字以前の時代の、古フサルクが刻まれたウシの骨が発見されたからです。発見されたのは一部ですが、もともとは、古フサルクが配列順に24文字刻まれており、ルーン文字の教育のために用いられていたと想定されています。報告された論文の結論は、ルーン文字とゲルマン語を用いていたゲルマン地域と、スラブ語を用いていたスラブ地域の間に直接的な交流関係があったというそっけないものですが、スラブ語が主として用いられていた共同体に、ルーン文字の初歩を教えるための道具があったという事実は、この地域のスラブ人もまた、ルーン文字を学ぼうとしていた可能性を想像できます。恒常的な交易のためだったかもしれませんし、現地に居ついたゲルマン人との意思疎通のためだったのかもしれません。いずれにせよ、ゲルマン人の居住空間を超えて、ルーン文字が認知されていたことを知ることができます。
5世紀、アングル人とサクソン人は、ユトランド半島を出発して、おそらくはオランダ北部のフリースラントを経て、イングランド南部に侵入しました。ゲルマン人の一集団であるアングル人とサクソン人は、コミュニケーション手段としてやはり大陸のゲルマン人と共通するゲルマン語とルーン文字を用いていました。しかし程なくしてラテン文字を採用した彼らは、ラテン語、ケルト諸語、ゲルマン語が接触する世界の中で、古英語を成立させました。統治行政や信仰においてはエリート言語であるラテン語が主として用いられた大陸世界に比べ、イングランドでは、生活言語である古英語が、ラテン語と同様に重要な地位を保っていました。他方でルーン文字もまた一部では併用されていました。
フリースラントとアングロサクソン(アングル人とサクソン人の総称)のルーン文字(アングロサクソン・ルーン)は、現地の発音体系に合わせて、文字数を、24から31に増加させました。言葉の変化に合わせて柔軟に対応するルーン文字の姿をここに見ることができます。古フサルクから発展したこの独自のルーン文字体系である「フソルク」(fuþork)は、9世紀頃まで用いられたことが確認されています。アングロサクソン・ルーンが衰退した理由は、ラテン文字の席巻もありますが、8世紀半ば以降、ヴァイキングが、北欧内部で彫琢された新しいルーン文字体系である新フサルクをもたらしたからでもあります。これについては次回以降確認することになるでしょう。
アングロサクソン・ルーンの一つの顕著な事例として「フランクスの小箱」(The Franks Casket)を取り上げてみましょう。この小箱は、2021年の英国のドラマ映画『時の面影』(原題は The Dig)で話題となった「サットン・フーの兜」と並び、大英博物館の目玉展示物の一つとなっています。鯨骨を原材料とするこの小箱は、イングランド北方のノーサンブリアで8世紀に制作されたと考えられています。この時代のノーサンブリアは「黄金時代」と呼ばれるほど、文化が繁栄していた時代でもあります。小箱それ自体には、天板と四面に、旧約聖書、ロムルスとレムスの伝説、ゲルマン神話などが描かれています。初期中世イングランドにおける文化複合の精華とも言えますが、ここで特筆すべきは、ラテン語と古英語による銘文がアングロサクソンのルーン文字で刻まれていることです。ここでは、小箱の、向かって左側にはゲルマン神話に登場する鍛冶師ヴェルンドを、右側には新約聖書の「三王礼拝」の場面を描写し、それらと合わせて解釈されるべきやや謎めいた古英語のフレーズをルーン文字で刻んだ正面板を確認しておきたいと思います。

図版4 フランクスの小箱の正面板
(訳:エギル。この魚は大波で断崖に打ち上げられた。恐怖の王は岸辺に泳ぎつくや悲しみに満ちた。鯨の骨。)
大陸やブリテン諸島は、とりわけ6世紀以降、急速にキリスト教化が進展します。キリスト教化とは、ただ人々の信仰が多神教から一神教に移行するというメンタリティ上の変化だけではなく、社会全体のシステムが変化するということでもありました。国王主導で各地に建設された教会や修道院のスタッフらが王権による統治にも関わり、ラテン語やギリシア語などで文書を作成し情報を記録する、文書社会が成立するということでもありました。各地に成立したゲルマン人国家は、ローマ帝国の行政や裁判のシステムを受け継いでいたため、いずれも似たような道を辿りました。
すでに見たように、古フサルクの大部分は、ゲルマン人の生活で利用されるモノに断片的に刻まれていたに過ぎません。それは、単にフサルクの羅列であったり、意味があるとは思えない文字列であったり、作成者の名前であったりなど、長く深い思惟を表現したものではありません。定まった儀礼、身振り手振り、口頭言語を含めてさまざまな手段を通じてコミュニケーションを行っていたゲルマン人にとって、ルーン文字もまた、そうした複合的なコミュニケーション体系の一部をなすものでした。この段階ではゲルマン人は、顕彰碑文やパピルス文書を駆使したギリシア人やローマ人のようには、記録し記憶する媒体として文字を使ってはいなかったと言えます。
しかし、時間の経過とともに、状況は変わってきました。変化の兆しはスカンディナヴィアの中に現れます。ローマとコンスタンティノープルという東西キリスト教の中心地から遠く隔たっていたスカンディナヴィアは、ラテン語やギリシア語による社会を作り上げたキリスト教の到達が他の地域よりも遅れました。言ってみれば、ゲルマン人の文化が、ヨーロッパ大陸の中では最後まで残っていた地域でもあります。それはつまり、ラテン文字やギリシア文字に駆逐されることなく古フサルクが残っていたということでもあります。
スカンディナヴィア人は、必ずしもストーンヘンジのような巨石文化を持ち合わせていたわけではありませんが、例えば鉄器時代以来、船の形に石を並べ死者を記念するという、船型列石という慣習が各地で見られるようになりました。海域とは切っても切れない関係を持つ北欧独自の文化です。ヴァイキング時代以前のものとしてはスウェーデン南端のアレ・ステナー(アレの石)やスカンディナヴィア文化の影響を受けたイングランド南東部のサットン・フー遺跡が有名でしょう。これはエリート文化の一部として、視覚効果のある石が用いられるようになったということでもあります。そうした環境の中で、石碑にルーン文字による記録が行われるようになりました。

図版5 アレ・ステナー
最古のルーン石碑とされているのは、ノルウェーで発見されたトゥーネ石碑(N KJ72 U)です。正確な年代はわかりませんが、200-400年頃に建立された石碑と考えられています。仮にこの年代比定が正しいとして、この早い段階でこれだけ長い意味のある文字列が残っているのは例外的です。

図版6 ノルウェーの文化史博物館に展示されているトゥーネ石碑
(訳:私 Wiwaz は、イエの主人である Woduridaz を記念して記した。Woduridaz のための石。後継者の中で最も高貴な3人の娘が葬送の宴を催した。)
さらなる転換点は7世紀に訪れます。スカンディナヴィア半島南西部のブレキンゲ(旧デンマーク領;現在はスウェーデン領)において、巨大なルーン石碑が集中的に建立されます。ステントフテン(Stentoften; DR357)、グンマルプ(Gummarp; DR358)、イスタビュ(Istaby; DR359)、ビョルケトルプ(Björketorp; DR360)という4つの石碑群です。このうち、グンマルプ石碑は現存せず、ステントフテン石碑とイスタビュ石碑は移送されて、コペンハーゲンの国立博物館に展示されています。ビョルケトルプ石碑のみ、もともと立っていた場所に今でも立ち続けています。ここでは建立当時の姿を伝えているであろうビョルケトルプ石碑を確認しておきましょう。
ビョルケトルプ石碑は、ルーン文字が刻まれた石碑と何も書かれていない2つの石碑という合計3基からなるモニュメントを形成しています。それぞれの石碑は4メートルを超える巨大なもので、これを凌駕する長さを持つ石碑は現存していません。

図版7a ビョルケトルプ石碑群
石碑群が立ち続けている場所は、建立した者にとってはよほど神聖な地であったと推測され、この聖所の破壊を避けるように以下のような文言が刻まれています。

図版7b ルーン文字が刻まれたビョルケトルプ石碑
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bjorketorpsstenen_helbild.jpg
B(石碑背面): uþArAbA sbA
(訳:私はここに光り輝くルーン、つまり魔術のルーンを隠した。この記念碑を損なうものには、恐ろしい死のあらんことを。)
人々が集まるであろう場所に公開されているモニュメントに、人に対する呪詛を文章として残すという行為は、それを読み、意味を理解し、情報を共有する共同体を前提としています。そのように考えた場合、ゲルマン時代初期にはごく一部のエリートに限られていたルーン文字を解釈する共同体の輪が、徐々により幅広い階層に拡大していく様子をも証言していると言えます。さらに申しますと、同時代にこれだけのルーン石碑が集中している地域はブレキンゲのみだとすれば、ルーン文字学者らが主張するように、7世紀のこの地域では何か大きな社会変化が起こっていたに違いありません。それがなんであるのかはまだわかりません。しかしながら、考古学の研究により指摘できるのは、イスラーム世界から大量の銀が流入して急速に社会が加速するヴァイキング時代の前夜には、北欧内部の各地で、地域を統合する在地有力者の動きが活性化していたということです。デンマークのフュン島のグズメ=ルネボー、ノルウェーのオスロ近郊のボッレ、スウェーデン中部ウップランド地方のヴァルスイェールデなどで発見された巨大遺跡はその良い事例と言えるでしょう。
以上のような動きの中で、ルーン文字も大きな変化を遂げることになります。つまり、24文字から16文字へと文字数を三分の二にまで減らした新しい文字体系、新フサルクが8世紀のスカンディナヴィアに誕生するのです。
〈参照文献〉

