ルーン文字とナチズム
第12回 ルーン文字とナチズム
スティーヴン・スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ」シリーズを見た方は、主人公インディが、ナチスの軍人や学者との間で、神秘的な力を持つ古代遺物を奪い合っているシーンを覚えているかもしれません。また、荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第2部(1987~1989)の愛読者であれば、やはり第三帝国の軍人ルドル・フォン・シュトロハイムが、ローマの地下で発見された吸血鬼を管理している場面を覚えているかもしれません。パラレルワールドの1923年のヴァイマール共和国を舞台としたアニメ映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』(2005)で、ヒトラーの登場を準備したオカルティストらの名前と実在の彼らを照合する誘惑に駆られた人もいるかもしれません。いずれもストーリーを盛り上げるためのフィクションと考える向きがほとんどだろうと思います。もちろん映画も漫画もフィクションには違いないのですが、第三帝国がオカルティズムに基づく疑似科学の「研究」を推進していたことは紛れもない事実です。
近年、ナチズムとオカルト思想との関係については、国内外問わず、多くの研究で触れられるようになりました。海外ではミヒャエル・カーターの基本書、ニコラス・グッドリック=クラークやエリク・クールランダーの著作で詳細な研究が展開されています。日本でも『歴史読本』「特集:超人ヒトラーとナチスの謎」(1989)、横山茂雄『聖別された肉体』(1990;新版2020)、そして浜本隆志『ナチスと隕石仏像』(2017)の著作、深澤英隆や久保田浩らの宗教史学からのアプローチでは、民族主義的な(フェルキッシュな)動きが顕著になる1890年以後のヴィルヘルム期から1933~45年にわたるナチズム期にかけてのオカルト思想に至る思想的道程と具体像が丁寧に論じられました。その後、この分野の基本書であるカーター『SS 先史遺産研究所アーネンエルベ――ナチスのアーリア帝国構想と狂気の学術』(2020)の翻訳が完成したことは、驚きであるとともに、日本における今後の研究に拍車がかかったということもできます。

図版1 カーター『SS 先史遺産研究所アーネンエルベ』(ヒカルランド、2020)
このようなナチズムとオカルトとの関係において、しばしば引き合いに出されるのがルーン文字です。ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊(SS)がルーン文字を模った隊のシンボルを持っていたことはよく知られています。戦後になっても民族主義的なナチズム思想を崇拝するネオナチは、その活動を禁じられながらも、あちこちで示威行為を繰り返してきました。最近、そうしたネオナチを想起させることから、「S」を表すルーン文字をあしらったかのように見えるサッカーのドイツ代表チームのユニフォームにケチがついたことは記憶に新しいです。
今回は、今なお終わらない問題としてのナチズムとルーン文字との関係を概観しておきましょう。
ハプスブルク家の支配するオーストリア=ハンガリー二重帝国(1867~1918)の首都ウィーンでは、欧州の多文化の十字路の一つとして、後世にも大きな影響を与える人物や作品が次々と生まれました。音楽のグスタフ・マーラー、絵画のグスタフ・クリムトやエゴン・シーレ、文学のシュテファン・ツヴァイク、精神科医のジークムント・フロイトらの名前を私たちは容易に思い起こすことができます。西欧、東欧、地中海文化の混淆するウィーンでは、ユダヤ人による文化創造も顕著でしたが、他方で、ウィーン市長カール・ルエガー(Karl Lueger, 1844-1910)のように、ユダヤ人の抑圧を図る動きも見られるようになりました。
このような空気の中で胚胎したのは、上述の彼らのように教科書に名を残すような人物やその作品だけではありません。今は忘却された思想や学知も生まれました。その一つがアーリア人種に関する「学知」であるアリオゾフィー(Ariosophie)です。ここでいうアーリア人とは、中央アジアからユーラシア各地に拡大した歴史上のアーリア人ではありません。そうではなく、北方ゲルマン人の祖として創造された疑似人種でした。アリオゾフィーは、その「アーリア人種」の至高性を証明するために、「アーリア人種」と措定される民族集団の生物学的特徴、その歴史、そこで生み出された文化などのさまざまな「証拠」を追求しました。この疑似学問が最高潮を迎えたのはナチズム期です。その「学知」の中核の一つがルーン文字の研究でした。ウィーンを基点として、半世紀をたどってみましょう。
ウィーンでは、多数派のカトリックに対抗する異教主義に基づくルーン文字への関心も高まっていました。その中心的な担い手がグイド・リスト(Guido List, 1848-1919)です。

図版2 グイド・リスト(撮影:コンラート・H・シファー)
彼が1905年に刊行した『ルーンの秘密』(Das Geheimnis der Runen)では、ゲルマン民族独自のルーン文字とされた「アルマーネン・ルーン」(Armanen runes)が考案されました。アルマーネンとは、古代ローマの歴史家タキトゥスの『ゲルマニア』第2章に記録されるゲルマン人の一部族を語源とします。リストによれば、アルマーネン・ルーンは18のルーン文字から構成される文字体系です。しかし、これまで見てきたように、歴史上ルーン文字が18文字で構成されたことはありません。これまで確認してきたように、2世紀に始まる古フサルク(elder fuþark)は24文字、8世紀からの新フサルク(younger fuþark)は16文字、12世紀以降の中世ルーン(medieval runes)は30文字前後です。そうであれば、18という数字は何と関連しているのでしょうか。
それは、キリスト教導入以前のアーリア人=ゲルマン人の精神を体現すると理解されていた『エッダ詩』に遡ります。13世紀に編纂されたその歌謡集の一部「高きものの歌」(Hávamál)のさらに一部をなす「ルーンの秘密」(Rúnatal, 139-146行)と「まじないの話」(Ljóðatal, 147-164行)では、北欧神話の主神オージン(ゲルマン神話のヴォータン)が、18のルーンの内容について説明しています。リストは、この「まじないの話」で解説される18のルーンに対応させるために、既存の新フサルクの16文字に、新たに「ᛅ」と「卍」という二つの文字を加えてアルマーネン・ルーンを創出しました。

図版3 アルマーネン・ルーン
このようにして18文字のアルマーネン・ルーンを提示したリストは、それぞれのルーンには「文字ルーン」(Buchstaben-Runen)と「神聖ルーン」(Heilszeichen-Runen)の二つの意味の層があると解釈します。ここで重要なのは後者で、リストは、「神聖ルーン」には、ルーン文字はそれ自体が、通常は隠されているが、ある手がかりにしたがって読み解けば、自ずと明らかとなる隠された意味を持つシンボルであるとします。そしてその手がかりになるのが、先ほど述べた『エッダ詩』に見られる「ルーンの秘密」です。イギリスの研究者マーティン・フィンデルは、リストの思想の中核には、個人の強い意志と「自己を知る」ことを通じて、外部からの障害を克服することができるという考えがあると言います。個人の精神力は「民族」(Volk)の「道徳力」(moralische Kraft)と分かち難く結びついており、それゆえに、民族の精神力は個人の精神力のマクロコスモスに相当する、としています。このようなリストの考えは、前回見たロマン主義時代のナショナリズムをそのまま反映していることがわかります。
リストによるアルマーネン・ルーンは、アリオゾフィーに関心を持つ人々を惹きつけました。彼を模倣してルーンの独自解釈に走る人たちが現れ、その刊行物が次々に世に出されました。世紀末ウィーンの空気の中で醸成されたこの疑似文字とその解釈は、時代の流れに乗って、ドイツ語圏全体に拡大しました。つまり、第一次世界大戦からワイマール(ヴァイマール)時代を経て、第三帝国期のドイツにおいてルーン文字が大きな役割を果たすようになります。
こうしたアリオゾフィーに一つの形を与えたのがナチスの親衛隊長ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler, 1900-45)でした。

図版4 ハインリヒ・ヒムラー
彼の庇護のもと、考古学者ヘルマン・ヴィルト(Herman Wirth, 1885-1981)が主導して1935年に創設したのが、アーネンエルベ(「祖先の遺産」 Ahnenerbe)という疑似学術組織でした。1939年にアーネンエルベは親衛隊組織の一部となり、第三帝国が投資する莫大な資金によって、アーリア人種の至高性を示すアーリア人学説を証明するための「研究」を組織的に進めました。アーネンエルベはアーリア人という「人種」と関わる組織であるため、とりわけ考古学、言語学、歴史学などキリスト教以前の古ゲルマンや先史時代を扱う研究には重点的に資金を投下しました。それは、ヨーロッパ本土だけでなく、アイスランド、チベット、南米といった、アーリア人の原郷の可能性のある地域にも関心を向けたり調査隊を派遣したりしました。
ここで私たちが注目すべきは、カール・マリア・ヴィリグート(Karl Maria Wiligut, 1866-1946)というアリオゾフィストの存在です。

図版5 カール・マリア・ヴィリグート
「ヒムラーのラスプーチン」と称されたヴィリグートは、ヒムラーの信任を得ることで、親衛隊内で少将の地位にまで昇進しました。ゲルマン人は本来、キリスト教を導入する以前にイルミン教という自然宗教を信仰していたとする独特の宗教思想を説くヴィリグートは、そのゲルマン人が本来用いていた文字として、古フサルクとは異なる24文字の「ヴィリグート・ルーン」(Wiligut runes)と呼ばれる文字体系を用いていた、としました。

図版6 ヴィリグート・ルーン
このヴィリグート・ルーンは、一見すると同じアリオゾフィストのリストのアルマーネン・ルーンと重なるように見えますが、自己顕示欲の強いヴィリグートは、リストやその追随者によるヒムラーへの影響を嫌い、リストとはあえて差異化された独自の思想体系を確立したと考えられます。
彼の思想に一時傾倒したヒムラーは、親衛隊の構成員が身につける隊章などにもルーン文字を刻むとともに、彼の居城でもあったヴェストファーレン州ビューレンのヴェーベルスベルク城をルーン文字で装飾し、親衛隊員の結婚式などに関わる独特の宗教儀式をヴィリグートに一任しました。

図版7 親衛隊隊章
それほどの信頼を得ていたヴィリグートですが、のちにヒムラーの信頼を失い親衛隊から追放されました。そうであったとしても、ヴィリグートの思想は、第三帝国のイデオロギーと親衛隊という帝国の中核組織において、すでに大きな影響を持ち得ていました。ルーン文字(ここでは偽文字であるヴィリグート・ルーン)という、本来ドイツ人の生活の中に馴染みのなかった文字体系が第三帝国のイデオロギー装置の一つとして組み込まれたのも、アーネンエルベでルーン文字研究が推進されたのも、このヴィリグートの果たした役割が大きかったと言えます。
アーネンエルベにとって、古ゲルマン研究の重要なデータを提供する北欧は中心的な研究対象でした。例えば、ヴァイキング時代最大の交易地であったユトランド半島のヘゼビュー(ドイツ名ハイタブ)の発掘責任者ヘルベルト・ヤンクーン(Herbert Jankuhn, 1905-90)やゲルマン法史の大家ヴィルヘルム・エーベル(Wilhelm Ebel, 1908-80)も、アーネンエルベの一員として、北欧の資料に基づきその研究を進めました。
考古遺物に加えて、北欧に残るゲルマン人要素として最も重視されたのがルーン文字でした。アーネンエルベのエンブレムにルーン文字が利用されていることを考えても、どれほど彼らにとってルーン文字がフェルキッシュなアイデンティティの一部となっていたのかを推測することはできるでしょう。

図版8 アーネンエルベのエンブレム
アーネンエルベにはルーン文字の研究を進める部門として、「文字ならびにシンボル学部門」(Schrift- und Sinnbildkunde)が設けられていました。その部門を先導したのはゲッティンゲン大学の印欧語学者ヴォルフガング・クラウゼ(Wolfgang Krause, 1895-1970)でした。

図版9 ヴォルフガング・クラウゼ
ケルト諸語やトカラ語(中国新疆ウイグル自治区で8世紀頃まで使用されていた言語)の専門家であったクラウゼは、アーネンエルベの中に作ったルーン学研究所(Institut für Runenforschung)において、現在なお世界のルーン学の中心地の一つゲッティンゲン大学のルーン学ゼミナールの基礎を作りました。
第三帝国のルーン学を論じる場合、クラウゼのライバル、ギーセン大学のヘルムート・アルンツ(Helmut Arntz, 1912-2007)にも触れねばなりません。

図版10 ヘルムート・アルンツ(右)
アルンツはギーセン大学で博士号を取得した後、ナチスとの間に軋轢が生じ、1939年にようやくギーセン大学に教員のポジションを得ました。そこでクラウゼの研究所と同じ名前の「ルーン学研究所」(Institut für Runenforschung)を設置し研究を進めました。このアルンツも、クラウゼと同様、ルーン文字研究を飛躍的に進展させました。一つはルーン文字研究の文献目録を刊行したこと、もう一つはルーン文字研究の機関誌を刊行したこと、さらにはハンス・ツァイス(Hans Zeiss, 1895-1944)との共著『大陸の在地ルーン碑文』(Die einheimischen Runendenkmäler des Festlandes, 1939)という大陸のルーン碑文のカタログを作成したことです。その上でアルンツは、ドイツ語圏で最初のルーン文字概論『ルーン学便覧』(Handbuch der Runenkunde, 1935)を刊行しました。

図版11 ヘルムート・アルンツ『ルーン学便覧』(第2版、1944)
本書は、1968年にクラウス・デューウェルの新著が書かれるまで、標準的な入門書の役割を果たしていました。
アーネンエルベにおけるルーン学は、クラウゼによる文献学的研究に加えてもう一つの流れを生み出しました。それは、ルーン文字の持つシンボル性に着目した「研究」です。ルーン文字は、基本的に、ラテン・アルファベットやキリル文字といった他の文字と同様、コミュニケーション手段として機能することはこれまで確認した通りです。しかしルーン文字は、その成立当初より呪術的な意味を文字それ自体が伴っていたという点を拡大解釈し、そこに同時代の文脈を超えた神秘的な意味を読み取ろうとする試みもありました。上述したリストのアルマーネン・ルーンもそうでしたが、第三帝国期にはさらに複雑になりました。その代表例はカール・テオドール・ヴァイゲル(Karl Theodor Weigel, 1892-1953)でした。大学で専門教育を受けたわけではないヴァイゲルは、学者としては素人でしたが、ルーン文字を神秘的な意味を内包するシンボルと理解し、独自の資料収集と「研究」を行いました。彼の著作『ルーンとシンボル』(Runen und Sinnbilder, 1935)は、ゲルマン民族の居住空間にある家屋の木造構造に見られる模様もまたルーン文字とその文字が持つシンボルと関係があるとする、言ってみればトンデモ理論なのですが、このヴァイゲルの「研究」とその資料は、クラウゼやアルンツにも影響を与えました。

図版12 テオドール・ヴァイゲル『ルーンとシンボル』(1940)
実のところ、さまざまな意味を伴う文字や記号を扱うシンボル学(Sinnbildkunde)は、20世紀初頭のドイツ語圏においては、一つの大きな潮流を成した研究分野でした。ハンブルクに独自の文化図書館(ヴァールブルク文化科学図書館)を創設した美術史家アビ・ヴァールブルク(Aby Warburg, 1866-1929)は、彼自身、ルネサンス美術理解のための図像解釈学(Ikonologie)という手法に訴えました。彼の図書館で学んだ人たちの中には、フリッツ・ザクスル(Fritz Saxl, 1890-1948)やエルヴィン・パノフスキー(Erwin Panofsky, 1892-1968)ら美術史家にとどまらず、歴史家のパーシー・エルンスト・シュラム(Percy Ernst Schramm, 1894-1970)や哲学者のエルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer, 1874-1945)もいました。彼らはいずれも象徴やシンボルという概念を用いて歴史上の事象を分析しました。夢解釈で著名なカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)もまた、このような流れの中で、人間の無意識における象徴の解釈を試みようとしました。

図版13 カール・グスタフ・ユング
このような思想潮流の一つは、ユングを中心とするスイスのボーリンゲンでの活動や彼がメンバーの一人を務めたエラノス会議へと続いていきます。

図版14 チューリヒ湖畔の「ボーリンゲンの塔」
第三帝国崩壊後のドイツでは、アーネンエルベは解体され、さらに公職追放などナチズムと関連する学問の痕跡を抹消しようとする動きが起こりました。他方で、「禊」を済ませたとして教壇に戻る研究者も少なからずいました。戦後のアルンツはルーン学とは一切関わることなく、大学からも距離をとり、文書研究とワインの研究で生涯を終えました。アルンツがギーセン大学になかなか着任できなかったのはナチズムに距離をとっていたからと判断され、のちに名誉回復も行われました。他方アーネンエルベの中で研究を進めていたクラウゼは、ゲッティンゲン大学でルーン学を継続し、多くの研究者を育てました。
ゲッティンゲン大学のクラウゼのポストを受け継いだのは、クラウス・デューウェル(Klaus Düwel, 1935-2020)です。

図版15 クラウス・デューウェル
彼は、当初ゲッティンゲン大学でドイツ語学を学んだのち、ウィーン大学でオットー・ヘフラー(Otto Höfler, 1901-87)の薫陶を受け、ゲッティンゲンに戻ったのち、北欧文献学のヴォルフガング・ランゲ(Wolfgang Lange, 1915-84)とフリードリヒ・ノイマン(Friedrich Neumann, 1889-1978)、中世史家のパーシー・エルンスト・シュラムとヘルマン・ハインペル(Hermann Heimpel, 1901-88)の元で博士論文を仕上げました。彼らはいずれもナチズムと深い関係を持っていましたし、日本との関係で言えば、シュラムは皇国史観を唱導した日本中世史家の平泉澄(1895-1984)に影響を与え、ハインペルは戦後、西洋中世史家の阿部謹也(1935-2006)の指導教員となった人物でした。
1974年にゲッティンゲン大学に着任したデューウェルは、78年に正教授となりました。ここでデューウェルはクラウゼ以来のルーン学の研究を進めました。数多くの論文を刊行し研究集会を主催しましたが、特筆すべきは1968年に刊行した『ルーン学』(Runenkunde)でしょう。最初は100ページ強であったこの教科書は、その後加筆を繰り返し、クラウゼの教科書を置き換える存在となっています。彼のいるゲッティンゲン大学は、ドイツにおけるルーン学の中心地として多くの研究者を輩出しましたし、彼の死後の2023年にはウィーン大学のローベルト・ネドマ(Robert Nedoma, 1961- )が補筆した『ルーン学』第5版が刊行されました。

図版16 『ルーン学』(第5版、2023)
128ページしかなかった初版は、その後の研究の充実を受けて3倍近い分量に増補されました。本書は今後も、ルーン学の定番教科書として、デューウェルの名前とともに利用され続けるでしょう。
デューウェルは、数多くの同僚とともに、世界のルーン学を大きく進展させました。彼が大学に加えて所属していたゲッティンゲン学士院は、「ゲルマン諸言語におけるルーンによって書くこと」(Runische Schriftlichkeit in den germanischen Sprachen=RuneS)というプロジェクトも進めてきました。世界のどこからでもアクセスし検索が可能なルーン文字のオンラインカタログです。もともと、ゲルマン人の文字である古フサルクの研究は、ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Carl Grimm, 1786-1859)に始まり、ヴォルフガング・クラウゼがルーン学ゼミナールの基礎を築いたという点で、ゲッティンゲンお抱えの学問領域でもありました。グリムが1821年に『ドイツのルーンについて』を刊行して以来デューウェルのこの企画まで一貫して大陸のルーンにこだわるゲッティンゲンは、ルーン文字研究にとって常に最新の研究現場であり「記憶の場」でもあったと言うこともできます。ゲルマン人の民俗心性を追求した日本のルーン学の草分けである谷口幸男(1929-2021)が、1981年における3度目の長期留学をこのゲッティンゲン大学に定め、デューウェルの研究室を利用したというのも当然であると言えるかもしれません。
デューウェルの活躍により、戦後ドイツはルーン学の中心の一つとして名声を得ました。それでは、アリオゾフィーとルーン文字研究を推進したナチズムの影は綺麗に消え去ったのでしょうか。アルマーネン・ルーンに追加された疑似ルーン文字と同じフォルムを持つ鉤十字は、戦後ドイツでは公的な場での使用を禁じられました。しかしネオナチや極右らはあいも変わらずルーン文字を用いたシンボルを掲げていますし、エソテリックやスピリチュアルな場においてはリストらの著作は利用され続けています。

図版17 ネオナチ組織ヴィーキング・ユーゲントのシンボル
アカデミアでのルーン学が進展する一方で、ナチズムを想起させるルーン文字の利用はなお人々の生活に根を下ろしています。世界各国において民族主義・一国主義・排外主義が高まり、SNS を通じてフェイクニュースが即座に拡大する現在において、ルーン文字がどのように利用されるのかを私たちは注意深く観察しなければなりません。
〈参照文献〉
